みなさん、こんにちは。
ブログ第100弾です。
おととしの10月からこのブログをスタートさせて頂きまして、
今回で100回目になりますが、自分ながらに良く続けられたなと思います。
もともとあまり継続することが得意ではないので、
それも含めて何か少しでも会社のことを、
皆さんに知ってもらえればと思い、始めました。
商談先でも話題にしてもらって、
非常に商談のスタートから会話にリズムをつけることが出来て
ブログをやっていて良かったなと感じております。
また、そう言いながらも、誰に見てほしいだけでなく、
自分自身の振り返りだったり、
考え方の整理であったり、また継続することの大切さ、
またそこにただ継続するだけだなく、
少しずつ読んでくれている方を意識しながら、
マンネリにならないように書いた次第です。
改めて皆さまには感謝申し上げます。
これからも続けていけるように
私自身も進化して行かなければいけませんし、
さらに、好奇心をもってこれからも仕事にプライベートに
頑張っていきたいと思います。
さて、今回は今までと違って少し私のことについて
書きたいと思います。
私は、昭和49年8月10日生まれの
寅年のしし座でみんなに嫌がられますが、AB型です。
生まれたのは東京都板橋区高島平です。
結婚するまでほとんどその高島平で生活をしていました。
高島平は私が生まれる十数年前までは
田んぼだったらしく、鴨猟もあったと聞いています。
最寄りには都営地下鉄の三田線が走っており、
地下鉄では珍しく志村あたりから地下鉄が
地上よりさらに上の高架の上を走っています。
高島平自身がかなり低い場所にあるので
地下鉄が高架の上を走っています。
生まれたときは4000gも体重があり、
あまり大きくない母の中にいたので、もうすぐで帝王切開かも
しれなかったようです。
そこからですね。
今でもそうですが、食べるのが大好きで毎食、
毎食たくさん食べていたのを覚えてします。
そんなこともあって幼稚園の頃から背は高く、
小学生の入学時には130cmの30kgありました。
また食べるのは早かったのでテレビを見ながら食べていても
早くたべなさいと怒られたことはありません。笑
(あまり自慢にはなりません。特に最近ですと尚更ですね。)
そんなこともあって、小学校6年生の時は
172cmはありました。
高島平は50年くらい前に
マンモス団地が出来て、その総戸数は10,170戸と
確かワンルームはありませんから、平均3人としても
団地だけ30,000人住んでいたことになります。
高島平だけで5万人くらいは住んでいたことになり、
小学校も確か高島第9小学校まであって、
5小と7小は200mくらいの密集度だったと思います。
それだけ当時は人がいたことになると思います。
確かにそうですよね。私たちの世代は団塊ジュニアと言われていて、
出生数が200万人を超えていた時代で今の時代の倍以上
生まれていたので、そこからも多さが分かると思います。
ですので、私の大きさに話を戻しますと、
近隣では結構有名だったそうです。
隣の小学校にでけーやつがそれも
2人もいると、(確かに、実は私は2番目に大きかったのです)
そんな小学生でしたが、当時は他の小学生とほとんど
同じように野球をやっていました。それほどうまくは
ありませんでした。結構楽しくやっていました。
野球と同時期に、父親である現会長の勧めで、
ゴルフも9歳くらいから始めるようになりました。
当時としてはかなり贅沢にさせてもらったと思います。
今でも大変お世話になっておりますお客様の物流の
トップの方が言っていましたが、当時のゴルフコンペに私がお客様に交じって
参加させて頂いていたそうです。
私はあまり当時のことは覚えていないのですが、
そのお客様に会うたびにお話を聞くことができました。
父からすれば早くそういった場に慣れるようにと
経験させてくれたのでしょう!!有難い話です。
また、体が大きかったこともあり、
いつからか記憶にはありませんが、
やはり9歳か10歳くらいから
会社の仕事の応援というかお手伝いにも良く駆り出されました。
当時、江東区にあった営業所に
夏休みになると毎日のように、高島平から三田線で
水道橋まで行き、そこから総武線に乗り換え、錦糸町まで乗り
またそこからバスに乗り換え、出勤していました。
スーパーマーケットのセンターでしたが、
まだ、小学生でしたので、資材の片づけを良くやっていたのを
覚えております。
当時はまだまだ小さい会社でしたから
当時の社長(今の会長の)に近い方がその営業所にたくさんおり、
厳しくもあり、優しくも接してくれたように
覚えております。
その時から会長は私に厳しく、
決して甘やかすことのないように言ってくれていたようです。
もう定年退職されてしまいましたが、
当時の所長が辞める何年か前に、
『金持ちの息子なのに昔の貧しい時代
だった家庭の息子のように育てられていた』と言われていました。
私としてはその言葉を聞いて、当時は
当たり前だと思っていましたが、今となっては誇らしく、
非常に感謝感謝でした。
また、当時はけっこう引っ越しの
仕事もやっていたので、私は引っ越しの助手で
お手伝いしていました。
さきほどのスーパーマーケットの物流センターでの
作業は裏方も裏方だったので仕事をしていてもあまり、
誰に迷惑をかけるわけではなかったですが、
引っ越しともなると当然目の前にお客様がいるので
さらに真剣に仕事をしないとお客様にご迷惑をおかけしてしまうし、
当然、上長にも怒られてしまいます。
そういった中で仕事の厳しさやまた、
皆さん有難いことに本当に厳しく教育してくれたので
(なかには何回か仕事しても私が社長の息子とは知らず、
何でこんな若い子が働いているんだ?そんな感じでした。)
仕事に対する姿勢みたいなものは相当、
若いころから学ばせてもらい、
自分の中ではかなり仕事のベースを
早いうちから確立させてくれたのだなと、
このブログを書きながら、
改めて感じさせてもらっています。
本当に感謝です。
まぁー小学生時代をこのように過ごしていましたが、
プライベートな面でいうと当時はプロレスが
大ブームで知らない方も多いかもしれませんが、
タイガーマスクとかスタンハンセンとか、
当時、私はハルクホーガンというアメリカのプロレスラーが大好きでした。
小学生の時は172cmもありましたし、
将来はプロレスラーになりたいと小学校の卒業アルバムに書いたのを
今でも覚えております。
そんな小学生時代でしたが、
特別、友達と遊ぶ時間が無かったという感覚もありませんでしたし、
当然、両親は共働きでしたが、寂しい思いや、どこへも
旅行に連れて行ってくれなかったということも
ありませんでした。
次の時にも少し触れますが、
私の父は授業参観なども結構参加してくれた記憶があります。
会社が創業期から成長期の時だったでしょうし、
バブルの前でしたからメチャメチャ忙しかったことだと
思います。
それでも常にバランス良く、
子供に対しても厳しさと愛情をもって接してくれていたと思います。
本当に感謝です。
今回はこれくらいして、また101回目に続きを書きたいと思います。
ではまた来週お会いしましょう!!